Tuesday, January 25, 2011

理东西,真是一件折寿的活儿


回来好好的把房间整理了一下——又塞了点东西到行李箱里去。因为实在怕超重,所以也就放进去两本薄薄轻轻的书而已,想着自己29号那天要肩上被个很沉的双肩包,还要再扛一个手提电脑,还要再提一个放着各种各样乱七八糟的杂货的手提包,就有些屈服的想打车…可是想想5000多的打车费,和只要210的电车费,实在是觉得痛苦…从米国过来已经很久没有整理过东西,提过东西,拖过行李箱了,再加上这次的行李箱又是大号的…心里实在怕的慌…到底能不能撑到机场呢…纠结中…

老爸一直发着“还有6天”“还有5天”的字样。我也开始了倒计时,与其说是兴奋,不如说进入了紧张的状态…1年2个月左右没有回去了,不知道回去该用或者说是会用什么样的表情面对他们。脑子里一直想象着回家的情景——机场肯定是老爸来接,而且肯定是很早很早,反正比预定的时间早很多就是了…回到家老慢估计也应该是挂着她特有的笑容吧…虽然都是一些很普通的东西,但是却很温暖,温暖的想要流泪。2年前我什么都没有考虑就放弃了后来才发现很珍贵的东西,走自己想要走的路。直到踏上我自己选的路程的时候才知道路的前面是什么,我将要面对的是什么——可以说不是贫穷,不是孤单,而是不知所措的茫然。将近快要满3年,日子似乎渐渐的多多少少的明朗了些,却并不是好过了些;自己似乎也更有了信心些,却没有足够的把握面对将来…

如今如果师傅问我有什么问题的话,我唯一想知道的就是,“这条路什么时候才能走完?”“我什么收才能和家人住在一起?”仅此而已…

愿老爸老妈身体健康!一切顺利!
阿弥陀佛!
菩萨保佑!

Friday, January 21, 2011

期末、论文、考试、行李、回家

花了两天不到的时间把Roberson的论文写掉了——看来我还是宝刀未老啊= v =原来以为会用很长的时间去憋那10张纸头,结果没有我想的用的时间长。只是看那些Roberson的书和边看边做笔记真的花去了很多时间…仔细想想其实这个学期真的做的很多reading,或许还不比我在米国的reading少,更多也是有可能的。只是因为都是自己喜欢的东西,所以或多或少都无所谓。Report写完了以后今天晚上就是PPT的Presentation了。再是石上什么接续词的考试了。期末突然来临,让我没有时间去想回家的时间,也没有时间兴奋,AIPOD上量多的扑出来的作业,再加上学校里的各种作业真是让我捉襟见肘了。平时不怎么学习的结果就是这样。

想想时间也真是快,转眼就要回家了,在米国的时候因为生活是在是囧还拼命的想家,到日本来了以后可能日子也过的好了,一转眼就到回家的日子——其实是一转眼又是一年了。前些天石上聊起他的年龄的时候才想起来老爸因为比我大30岁今天也是51岁了。原来岁数增大的不仅仅是我这个根本不想长大的小孩,还有操劳的父母。看见老爸在QQ上发给我的上海下雪的图片,心里实在就不知道该有什么想法好。不知道是这个物业管理的问题呢还是什么,都51岁的人了还在自己在那里铲雪……让我该说什么……——石上的话再次敲新醒了我,“年过50身体神马的都开始退化。”这让我去怎么面对家里的那位老爷~再加上那位老爷去年本来就骨折过一次…前些天在电视上看见关于MBA的介绍,才突然想起,我之前是多么的执着与MBA,而现在却只一心一意的想着怎么毕业怎么找工作,怎么赚钱,怎么给父母减轻负担,怎么进Pixar…不是我的思想或者人生变得太快,而是生活变得太快…不改变自己的计划就赶不上生活…自己脑子里已经想象着方董用吃惊的表情感叹,“老符你怎么又来一条那么劲爆的消息~”——可能我的生活就是充满劲爆的吧…

还有一个星期就回家了,和以往激动的睡不着不同,如今更多的是说不出的紧张…
愿老爸老妈身体健康!一切顺利!
阿弥陀佛!
菩萨保佑!

Thursday, January 13, 2011

快到回家的日子了——想家


从小包开始理,理好了忘东西了,再翻开理,把大衣的扣子缝好了,拿出大衣,再从小包理到大包。很久没有提过行李了,怕超重了又是拿碗又是拿书,忙进忙出。还好是吃了饭后做这种事情,也算是运动运动胃了。每次理行李总是气喘吁吁——这是一件脑力兼体力的活儿——不简单。还有两个星期就回家了。自己不像是从前那么的激动了。最近和老爸和家里的联系也只是在QQ上发发消息,视频,音频,全部都没有。不知道是不是这种没有反而冷淡了我从前回家的“激情”。父母对于我来说似乎没有从前的安全感了…我知道他们很重要…可是我似乎不能再一股脑的全部依靠在他们身上了,很多事情他们也无能为力,告诉他们,或者向他们倾诉,也只是给他们和自己平添烦恼。想到这里,作为家人的意义,我又迷失了…是最近活得简单了没有脑力去想那些深层次的东西了,还是经历的太多反而没有办法面对生活中的那些简单的东西了——生活就是生活,父母就是父母,没有必要去想那么多。?不知道自己的经历对自己除了成长还意味这什么…Becker怎么样了…不知道有没有想过他这个学生…

只是当老爸发给我“还有19天我们就能团聚了”的消息的时候,我真的不知道用什么样的感情去面对,只是只是抿着嘴角——一丝尴尬、一丝愧疚、一丝心痛、一丝久违…如果是以前的我的话一定是泪水在眼眶里打转吧…理书包的时候翻出了一年前从家里寄来的放在包裹里的信件。没有像样的信纸,老妈的字迹排列的和从前一样整齐,想起了当初我看见这几封信的时候眼泪夺眶而出,如今看着这些发烂的纸和字迹,想着从前的自己,只是呆呆的发呆,不知自己在哪里何时自己是谁…到底是什么变了,自己也不清楚…

老颀发现了照片在日本——眼睛挺尖的孩子,先糊弄过去吧,反正回去也会和她说。不知道她现在的状态是怎么一回事,但是自从她把话说明了,我哭的稀里哗啦以后,我似乎就真的提起了自己的脚步,走自己的步子,不再去等她,或者等任何人了。不愿去相信我这辈子碰不到一个知音,只愿意去相信自己还没有碰到人生的知音而已。老颀,祝你在你人生的路上走好。有空一起念经。

看着理好的行李,心里轻松了一些…
即使航班在晚上起飞,我也要大白天跑到机场去混一整天,我就是这样的人,虽然呆在机场里的时间会那么折磨人…快到回家的日子了——想家。

愿老爸老妈身体健康!一切顺利!
阿弥陀佛!
菩萨保佑!

Friday, January 7, 2011

Ghibli今年夏天又要出新片了,好幸福= v =


1980年頃『なかよし』に連載され不発に終った作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)。高校生の純愛・出生の秘密ものであるが、明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。
結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである。
少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。
今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。
「コクリコ坂から」は、人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならぬ。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切りぬけねばならない。それをてらわずに描きたい。
「となりのトトロ」は、1988年に1953年を想定して作られた。TVのない時代である。今日からは57年前の世界となる。
「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。
 新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。とはいえ、映画は時代を描くのではない。
女系家族の長女である主人公の海(うみ)は高校二年、父を海で亡くし仕事を持つ母親をたすけて、下宿人もふくめ6人の大世帯の面倒を見ている。対する少年達は新聞部の部長と生徒会の会長。ふたりは世間と大人に対して油断ならない身がまえをしている。ちょっと不良っぽくふるまい、海に素直なアプローチなんぞしない。硬派なのである。
原作は、かけマージャンの後始末とか、生徒手帖が担保とか、雑誌の枠ギリギリに話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない。筋は変更可能である。学園紛争についても、火つけ役になってしまった自分達の責任を各々がはっきりケジメをつける。熱狂して暴走することはしない。何故なら彼等には、各々他人には言わない目標があり、その事において真摯だからである。
少年達が遠くを見つめているように、海もまた帰らぬ父を待って遠い水平線を見つめている。
横浜港を見下ろす丘の上の、古い屋敷の庭に毎日信号旗をあげつづけている海。
「U・W」旗――(安全な航行を祈る)である。
丘の下をよく通るタグボートのマストに返礼の旗があがる。忙しい一日が始まる朝の日課のようになっている。
ある朝、タグボートからちがう信号が上る。
「UWMER」そして返礼のペナント一旒(いちりゅう)。誰か自分の名前を知っている人が、あのタグボートに乗っている。MERはメール、フランス語で海のことである。海はおどろくが、たちまち朝の家事の大さわぎにまき込まれていく。
父の操るタグボートに便乗していた少年は、海が毎日、信号旗をあげていることを知っていた。
(ちょっとダブりますが)
舞台は、いまは姿を消した三島型の貨物船や、漁船、はしけ、ひき船が往来する海を見下ろす丘の上、まだ開発の手はのびていない。祖父の代まで病院だった建物に、和間の居住部分がくっついている。学校も一考を要する。無機的なコンクリート校舎が既にいくらでもあった時代だが、絵を描くにはつまらない。登校路は、まだ舗装されていない道も残り、オート三輪やらひっかしいだトラックが砂埃(すなぼこり)をあげている。が、ひとたび町へおりると、工事だらけの道路はひしめく車で渋滞し、木製の電柱やら無秩序な看板がひしめき、工場地帯のエントツからは盛大に黒煙、白煙、赤やらみどり(本当だった)の煙が吐き出されている。大公害時代の幕がきっておとされ、一方で細民窟が存在する猛烈な経済成長期にある。横浜の一隅を舞台にすることで下界の有様がふたりの直面する世間となる。その世界を俊と海が道行をする。そこが最後のクライマックスだ。
出生の秘密については、いかにもマンネリな安直なモチーフなので慎重なとりあつかいが必要である。いかにして秘密を知ったか、その時ふたりはどう反応するか。
ふたりはまっすぐに進む。心中もしない、恋もあきらめない。真実を知ろうと、ふたりは自分の脚でたしかめに行く。簡単ではない。そして戦争と戦後の混乱期の中で、ふたりの親達がどう出会い、愛し生きたかを知っていくのだ。昔の船乗り仲間や、特攻隊の戦友達も力になってくれるだろう。彼等は最大の敬意をふたりに払うだろう。
終章でふたりは父達の旧友の(俊の養父でもある)タグボートで帰途につく。海はその時はじめて、海の上から自分の住む古い洋館と、ひるがえる旗を見る。待ちつづけていた父と共に今こそ帰るのだ。そのかたわらにりりしい少年が立っている。
原作のエピソードを見ると、連載の初回と二回目位が一番生彩がある。その後の展開は、原作者にもマンガ家にも手にあまったようだ。
マンガ的に展開する必要はない。あちこちに散りばめられたコミック風のオチも切りすてる。時間の流れ、空間の描写にリアリティーを(クソていねいという意味ではない)。脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない。少年達にいかにもいそうな存在感がほしい。二枚目じゃなくていい。原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリだ。少女の学校友達にも存在感を。ひきたて役にしてはいけない。海の祖母も母も、下宿人達も、それぞれクセはあるが共感できる人々にしたい。
観客が、自分にもそんな青春があったような気がして来たり、自分もそう生きたいとひかれるような映画になるといいと思う。

Studio Ghibliの新年祝贺

2011年1月 1日
新年明けまして、おめでとうございます。

Illustrated by H. Miyazaki


旧年中は、スタジオジブリを応援していただきまして、まことにありがとうございました。
本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。


 スタジオジブリは今年の夏にも、映画を公開いたします。タイトルは「コクリコ坂から」。東京オリンピックの前年、昭和38年の横浜が舞台の、高校生の物語です。
 当時は、高度成長経済の始まり。貧しかった戦後は終わりを告げ、日本国民全員が明るい明日を信じて、がむしゃらに働いていた頃です。携帯電話もゲームもコンビにもなかったけれども、希望だけはあった。現代から見ると、まるで、ファンタジーのような世の中でした。
 振り返ってみて今の日本はどうでしょう。50年前より物質的には豊かであるけれども、明日への希望はあるのでしょうか。私たちは、すっくと前を見て歩けているでしょうか。
 そんな問いかけを含めて、この企画は立ち上がりました。「上を向いて歩こう。」このキャッチコピーに、私たちの思いを乗せて、スタジオでは一丸となって、映画の完成に向けて取り組んでいます。

 是非とも、この夏の公開を期待していただければ、本当に嬉しく思います。